わたしの小さな母さまたち 2
40年あまりの人生をふりかえると、要所要所で「女神さまか!」と思うような女性がわたしを助けてくれていたことに気づきました。彼女たちのおかげで今があります。
わたしを助けてくれた、素敵な女性たちについて、思い出を書くシリーズです。
結婚式の席次表をつくるとき、
「親戚ではないのですが、とてもお世話になったんです。そういう人のことはなんと表せばいいんでしょうか」
とプランナーさんに聞いたら、
「色々な表現がありますよ。シンプルに『恩人』ですとか、小さな母と書いて『小母』というのもあります」
と教わりました。そのときは「恩人」を採用したのですが、「小母」が心に残っていたので、タイトルに使用しました。
現在わたしは母にならない人生を選択していますが、いや待てよ、小母さんとして、世の子どもたちにかかわることはできるんだな、と思ったりもしています。
■H高さん
今日は、H高さんのことを書きます。
前回のH野さんに続き、Hで始まる二人めの小母さまです。
(HさんではなくH野さんと記したのは、次はH高さんのことをを書こうと想定していたからです)
H高さんも、もともと母の友人、英会話仲間。
転勤族の妻だった母は、引っ越した先で趣味仲間をつくる天才で、わたしはその恩恵にかなりあずかっていました。
H高さんには、わたしより一つ年嵩の息子さんと、わたしの一歳下のお嬢さんが一人ずつ。
いっときは、H高さんのご自宅で開催されていた子ども英語教室に通ったり、いくつかの家族で一緒にキャンプに行ったり。大学教授だったH高さんの夫君と、うちの父親と、もう一人妹の幼なじみのお父さんと3人で、政治経済の勉強会をやったりもしていました。小学校時代から、ふんわり家族ぐるみのおつきあいです。
H高さんは、ぱつっと揃えたボブヘアに、パッチリした瞳を持ち、子どもの目からみても綺麗な人でした。
それで、素直になつけばいいものを、小学生のわたしは、そういうことがうまくできませんでしたので、距離感はなんとなく微妙。今思えば、子ども時代は、複雑な感情をうまく言語化することができず、マグマを体内にずっと抱えているような状態で、0−100なところもあって、周囲の人たちと上手に関係を持つことができていなかったように記憶しています。キャンプに行っても、気持ちが整うまでは車からなかなか出なかったりしたので、面倒くさくて感じの悪い子だったはず。
ところが、高校1年生の時に両親が海外に行ってしまって、一人残されたわたしを、H高さんは気にかけてくれました。
月に一度、日曜日。家まで迎えにきてくれて、ランチに連れていってくれたのです。
愛想のない女子高生(わたし)を助手席に乗せて、
「唯ちゃん、モンゴリアンブーツって知ってる? この前、女子大生が話してるのが聞こえてきたんだけど、モンゴリアンブーツっていうのがあるの?」
なんてお喋りしてくれて、実家に取りに行きたいものがあれば車を回してくれて。
焼き立てパンがいくらでも食べられるレストランによく連れていってもらいました。
想像するに、H高さんにとってはそこまで楽しい時間ではなかったんじゃないかしらん。
わたしがオープンマインドで、明るくて、ちゃんと気遣いのできる子だったらよかったんですけれど、ムラっけがあって、感謝を表現できない子どもだったから。
今思い返しても本当に、どうしてH高さんはあんなに気にかけてくれて、毎月ランチに連れてってくれたんだろうと不思議で、そしてとてもありがたいことだと思うのです。
それで、最近になって母にその話をしたら、母が知らなかったので、わたし達はますますH高さんの無償の愛を感じて、驚きました。
わたしも友人の子どもたちをみていて、何かをしてあげたいな、と思うことはありますが、やっぱり心のどこかに「感謝されたいな」って見返りを求める気持ちがうずうず蠢いています。そういうのを微塵も感じさせずに、淡々とランチに連れていってくれたH高さんの魂の高潔さを思います。