40年あまりの人生をふりかえると、要所要所で「女神さまか!」と思うような女性がわたしを助けてくれていたことに気づきました。彼女たちのおかげで今があります。
わたしを助けてくれた、素敵な女性たちについて、思い出を書くシリーズです。
結婚式の席次表をつくるとき、
「親戚ではないのですが、とてもお世話になったんです。そういう人のことはなんと表せばいいんでしょうか」
とプランナーさんに聞いたら、
「色々な表現がありますよ。シンプルに『恩人』ですとか、小さな母と書いて『小母』というのもあります」
と教わりました。そのときは「恩人」を採用したのですが、「小母」が心に残っていたので、タイトルに使用しました。
現在わたしは母にならない人生を選択していますが、いや待てよ、小母さんとして、世の子どもたちにかかわることはできるんだな、と思ったりもしています。
■H野さん
「そんな親切な人、いるんですか?」
H野さんについて話すと、たいていの人が驚きます。
父親の海外転勤についていくのを嫌がり、日本に残る残ると大騒ぎ※の、ちょっとグレた女子高生。そんなわたしに、
「それじゃあ、うちの隣のアパートが空いてるからそこに部屋を借りて、毎日晩ご飯を我が家で食べるってことにしたらどう?」
と、申し出てくれたのがH野さんでした。もう25年ほど前のことです。
「親がマレーシアに転勤になったから、H野さんの家にお世話になることになった」
といえば、ほとんどの人が
「あ〜親戚のお家ね」
って思いますよね。でも違うんです。H野さん、山脇家と血縁関係まったくないんです。それなのに、不機嫌な16歳の面倒をみるって言ってくれる人、います?(反語)
H野さんの山脇家とのかかわりは、わたしの母と同じ英会話教室に通っていた、ただそれだけ。
H野さんは当時、教育関係のお仕事をしているダンディなhusbandと、お茶目なおばあちゃまとの3人暮らしでした(お嬢さんは就職して東京にいらっしゃったはず)。
立派なお家のすぐ前には、あつらえたかのような2Kのアパート。そこに部屋を借りて、学校から帰ったらH野さんの家で晩ご飯を食べて、食器を食洗機に入れるだけの簡単なお手伝いをして、食後のおやつを食べて、寝に帰る、そういう暮らしを高1の夏から高2の夏までさせてもらいました。
中学卒業後、春休みの間に軽くグレて、アウトローの道を進んでいたわたしですが、両親から離れたら一気に反抗心が弱って、悪友たちとの交流も自然消滅。H野さん宅が学校に近く、繁華街に寄らず通えたことも幸いでした。
元高校教諭のH野さんのもと、苦手な数学の復習をリビングで唸りながらやったり、部活動でヘロヘロになったりしているうちに、寝て起きて学校に行って、帰ってきてごはんを食べて勉強する、シンプルな高校生の暮らしが身についたのです。
社会性を身につけるのが遅くて、愛想をふりまくことが上手にできないので、
「H野さ〜ん!」
などと甘えられず、申し訳ないなあと感じていたけれど、毎日のことなので急にテンションを上げることもできず、ムシャムシャごはんを食べることがわたしなりの感謝と愛情の表現でした。というか、単純にH野さんのごはんが毎日とても楽しみだったので、心からおいしく食べてただけなのですが。
大好きだったのはラザニア。人数分取り分けたあと、わたしがおかわりをくり返し、気づけば正方形のキャセロールをほぼ1人で食べていた記憶があります。わたしにとって完璧なラザニアで、いくらでも食べられました。
ときどきH野さんが用事で遅くなる日があって、そういうときはおばあちゃまと2人で用意してあるごはんをいただく、その時間も好きだったし、週末にお嬢さんが帰省してきて、おじさまを
「パパったら、すっかり唯ちゃんを可愛がって!」
なんてアメリカン・ホームドラマな感じでいじってるところに同席するのも、こそばゆくて良いものでした。
猫っかわいがりしないし、ただ居てくれて、でもちゃんとこちらにずっと目を向けてくれて、わたしが何か間違いそうになったらそっと知らせてくれるH野さん。
子どもは、揺るぎない大人が近くにいると
「この人を失望させたくないな」
と思って、自然とちゃんとしようと心がけるようになるんだと思います。
高2の夏、母と妹が帰国して、ホームステイの期間は終わりました。
わたしはひと様に懐くのがヘタで、そのあとも「H野さ〜ん!」とは振る舞えなくて、でも、お嬢さんの結婚式にお招きいただいたり、私たちの京都の結婚式に夫婦でお越しいただいたり、節目節目で擬似娘させていただきました。
こうして振り返ると、H野さんの姿勢が、わたしの「かくありたい」講師像にかなり影響を与えたことがわかります。高校時代は、まさか自分が教えることを仕事にするなんて考えてもいなかったけれど。
見返りを求めずに子どもや学生と接することは本当に難しくて、うっかりすると「好かれよう」とか「愛されたい」とか邪念が浮かんできてしまう。邪念があると、なんだか存在がねばっこくなって、相手の成長を妨げてしまう。
手放しに、存在を見つめること。それがどれだけ難しいことか。H野さんがわたしにしてくれたことがどれだけ大きいことだったか、改めて感じます。高校生と毎日過ごすのって絶対大変ですよ。すごいなあ、H野さん。
今でも山脇家は酔っ払うと
「あのとき、H野さんがいてくれて本当によかったねえ!」
「お姉ちゃん(わたしのこと)、あのままグレてたら、どうなってただろうねえ!」
と懐かしい話に花が咲きます。
H野さんのブログを読むと、お孫さんに対する目線の柔らかさと、キラっとひかる冷静さに「さすがH野さんだな」と感心します。時間をかけて磨き上げたものは変わらないのですね。
わたしもいつか、友人なり親戚なりが、
「この子を置いて海外に行かなければならない……どうしよう」
という状況になった暁には、
「うちにおいでなさいよ!」
と言えたらいいな、というささやかな夢があります。ただし我が家の場合は食事を作るのが連れ合いなので、まずは協議をしなくてはなりませんが。
みなさま、何かありましたらお声掛けくださいね。
※わたしの通っていた高校は県内トップの女子校で(自慢ですが阿佐ヶ谷姉妹のお姉さん・元なでしこジャパン安藤梢選手の母校でもある)、それなりに受験勉強を頑張って入ったのです。ところが、海外に行くとなると「一旦、退学してもらって、帰ってきたらまた1年生から始めてもらう」というんで「留年するの嫌じゃ〜〜」と、大騒ぎ。グレても留年を嫌がる謎のマインド。
過分なお言葉痛みいります。だって私、お母様が困っておいでだったから提案しただけ、深い考えもなかったのですが、何かあればすぐ行けるところだし安心なさるかなって思っただけです。でも唯ちゃんと過ごした1年私もたのしかったですよ。なんでもおいしいって食べてくださったでしょう?大人ばかりになって娘が東京へ出てから食事づくりも張り合いがなかったですもの。作り甲斐がありましたし、全然視聴したことのない音楽番組で耳新しい歌を聞けたり。おれに後々までも宇都宮に来られるたびに寄ってくだある素敵なおばあちゃまとお話できたり、いいことたくさんたくさしたよ。懐かしいですね。